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2025.08.06お知らせ
寺院が非常に厳しい状況に置かれていることはこれまでも何度もお伝えしてきました。私たち住職やお寺で生計を立てている人にとっては当然、死活問題です。
しかし、一般の方々にとっては寺院が減っていくことにはどのような問題があるのでしょうか。言い換えれば、寺院はこの社会の中で、どのような意味を持っているのでしょうか。そして、寺院は今やこれからの時代に本当に必要なのでしょうか。
今回は寺院の必要性や意義と言った根本に目を向けることで、今後寺院に求められている役目を考えていきたいと思います。
目次
- かつて寺院は、心の拠り所で相談が集まる場所だった
- 寺院は根拠のある“本物”のスピリチュアル
- ニーズに合わせてお寺を自由に選ぶ「シン檀家」という考え方
- お寺に気軽に立ち寄ってもらうためには、寺側の工夫と努力が不可欠
- 「悪いことをしたら地獄に行くよ」と言われた経験が道徳心を培う
かつて寺院は、心の拠り所で相談が集まる場所だった

寺院に求められる役割について考えると、葬儀や供養といった儀式がまず頭に浮かぶという人も多いのではないでしょうか。もちろん、これらのことも寺院の持つ重要な役目の一つではあります。しかし、かつての寺院では儀式を執り行うことよりも多くの人から求められていたある役目があったのです。
寺院に求められていたこと、それは心の拠り所です。特に医療が発達する以前は精神的な苦痛を取り除くためにお寺を訪れるという人も大勢いらっしゃいました。
仏教用語に「生老病死」という言葉があります。生まれて、老い、病気になって死ぬ、人間の一生を現した言葉です。お寺は一人ひとりの「生老病死」に寄り添う場所でした。そして、「生老病死」に日々寄り添っていたからこそ、人生の最後の儀式となる葬儀や供養なども意味を持ったのです。
今、寺院は「生老病死」の寄り添いがなく儀式を行うだけの場所となっているかもしれません。これでは人が必要としなくなるのも仕方がない面もあると私は考えています。
寺院は根拠のある“本物”のスピリチュアル

医療が発達した現代では体調が悪くなれば病院に行きます。また、心の不調の場合でも精神科などに相談する方が多いでしょう。身体でも心でも、問題を感じた際にお寺に相談に行こうと考える人はかなり稀です。
では、もう寺院は心の拠り所として必要ないのかというと、私はそうは思いません。この時代において寺院は本物のスピリチュアルとして、社会の中で貢献できると考えています。
とはいえ、スピリチュアル全体には、根拠が乏しい傾向があります。人の心にある不安や弱さを支える側面もありますが、多くのスピリチュアルは根拠を突き詰めていくことができません。この点、仏教であれば「法典のここに書いてある」といった具合に、明確に根拠を示すことができます。
時代がどんなに変わったとしても、心の拠り所は今でも必要です。しかし、寺院は心の拠り所であることに力を注がなくなってしまったのではないでしょうか。寺院は本物のスピリチュアルとして、人々の心の拠り所になることができるはずです。
ニーズに合わせてお寺を自由に選ぶ「シン檀家」という考え方
では、どのようにして寺院が心の拠り所となれるのかを考えると、私は「シン檀家」という考えが有効なのではないかと思っています。シン檀家とは従来の寺院との関係性にとらわれず、もっと自由に、多様な形で寺院と関わることです。
これまでの檀家は特定の寺院に所属し、葬儀や供養、お墓の管理などをその寺院に一任するのが一般的でした。しかし、現代のお寺は「敷居が高い」と感じられ、気軽に立ち寄れる場所ではなくなっています。
そこで提案されるのが「シン檀家」です。これは、例えば「お墓は別のお寺にあるけれど、お参りはこのお寺」「悩み事の相談はこのお寺」というように、自分のニーズに合わせて複数のお寺を自由に選ぶイメージです。
お寺に気軽に立ち寄ってもらうためには、寺側の工夫と努力が不可欠

もちろん、シン檀家という言葉だけを作っても寺院が訪れやすくなるということはありません。多くの人が気軽に立ち寄れるようにするためには、お寺側の努力が必要不可欠です。
私はそのための有効手段の一つに、イベントの実施があると思います。イベントはなんだっていいのです。特別な御朱印の授与やフリーマーケットなど、様々なやりようがあります。イベントは単発で実施して終わるのではなく、続けることが重要です。一度イベントをすれば解決するわけではないからです。
そして、イベントの実施と同等、もしくはそれ以上に重要なのはリストを作ることです。おすすめは、アンケートを取ってリストを作っていく方法です。どういうきっかけで訪れたのかを聞いて、イベントのDMを今後送ってよいかなども知ることができます。
一方で、たとえリストを作成してDMなどで定期的にご案内を送ったとしても、その後、実際に足を運んでいただけるとは限りません。しかし、私はそれでも構わないと考えています。実際の体験として一度だけ天明寺を訪れてくださり、その後はご縁が遠のいていた方が、あるきっかけで供養のご相談にいらっしゃったということがありました。こうしたときにリストがなければ「覚えていません」といった失礼な対応をしてしまう可能性もあります。
お寺側が柔軟で横断的で開かれた場所になる。このことがシン檀家が集うための第一歩と言えるでしょう。
「悪いことをしたら地獄に行くよ」と言われた経験が道徳心を培う
ここまで、寺院が人々の心の拠り所になるためには何をするべきかということを提案してきました。最後に視点を変えて、人々の心の拠り所として寺院があった方がいい、あるべきだという点でのお話を少しだけさせていただきます。
私は道徳教育の根幹には宗教があると考えています。子供のころにお寺で地獄絵図を見せられて「悪いことをすると地獄に行くよ」と言われた記憶がある人も多いのではないでしょうか。こういった経験が道徳心を培ってきたのです。
犯罪が起きる理由の一つとして、こういった道徳心の欠如があるように思います。神様仏様への怖れは、犯罪の抑止力となっているのです。悪いことをしても地獄に行くと思わない、そんなことを教えられたこともない。現代では宗教を通じて道徳心を培うという経験が減ってきているのかもしれません。
アメリカやヨーロッパに目を向けても「SBNR(Spiritual But Not Religious)」と呼ばれる無宗教型スピリチュアルという考えを支持する人が増えています。世界的にも宗教に対する信仰心が失われている傾向があります。
社会や世界の平和のためにも、宗教の持つ意義は決して小さくありません。そして、私たち日本人にとっては最も身近である寺院が今すべきことは、人々の心の拠り所になることでしょう。もし寺院が多くの方の心の拠り所になれたのならば、大きな意味を持つのではないでしょうか。