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2025.10.23お知らせ
仏教界は長い歴史の中で育まれた伝統や独自の慣習が色濃く残る世界です。これらは文化や信仰を守り続けてきた証であり、ときに人々の心の拠り所となってきました。
法要の作法や寺院運営の形式、僧侶の生活様式。これらは一朝一夕にできたものではなく、先人たちの知恵と信仰の結晶です。しかし、現代社会は大きく変化しています。
少子高齢化や檀家の減少、地域コミュニティの希薄化、そして葬儀や供養の簡略化、無宗教化が進み、多くの寺院が経営的にも精神的にも厳しい状況に直面しています。このような中で、伝統や形式を守ることが目的化してしまい、結果として寺院運営の柔軟性を失わせているケースも少なくありません。今回は、仏教界において変えていくべき常識をテーマにお話しします。

目次
- 古い業界には、その業界だけの常識がある
- 寺院は伝統にあぐらをかかずにブランド価値を作り出す努力が必要
- 「発信するものがない」は本当か?
- 流行よりも地元に根付いている文化に着目する
- 必要なのは技術よりも先に心構え
- 流行よりも「地元に根付いている文化」に着目する
- 白菜加持法要は「地元文化 × 信仰」から生まれた
- 継続できるものこそ、寺院が守るべき価値
- ただ発信すればいいわけではない
- 小さな変化・気づきを加えるだけで、話は生きる
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古い業界には、その業界だけの常識がある

どの業界にも、長く続いてきたがゆえに形成された業界内だけの常識というものがあります。ただ、その常識が時代の変化に合わなくなっているにもかかわらず、昔からそうだからという理由だけで続けられている場合も少なくありません。
仏教界も寺院運営や法要の形、檀家制度、僧侶のあり方など、それぞれに確立された当たり前があります。しかし、その中には現代の社会構造や価値観に合わず、むしろ寺院の衰退や人々との距離を生んでしまっている慣習も存在します。
今の社会は人口減少や地方の過疎化、価値観の多様化、葬送文化の変化、デジタル化など、これまでの前提が覆されるような変化の中にあります。このような時代においては、守るべきものと見直すべきものを見極める視点が求められます。
企業経営や学校、伝統産業、さらには家族のあり方に至るまで、どんな組織やビジネスでも常識のアップデートが求められている時代ではないでしょうか。伝統と革新、守ることと変えること。その両立こそが、これからの時代に必要とされる智慧です。
今回の記事が仏教界の方々だけでなく、さまざまな分野で奮闘する皆さまにとってもヒントや気づきとなれば幸いです。
寺院は伝統にあぐらをかかずにブランド価値を作り出す努力が必要

伝統的な寺院の多くは数百年という時を超えて地域に根ざし、中には千年以上の歴史を持つ寺院も存在します。その歴史は、ただ長いだけでなく、戦乱や飢饉、疫病、社会制度の変化などを乗り越え、地域の人々に支えられ、信仰と文化を守り継いできました。
しかし、こうした長い歴史と伝統があるがゆえに、寺院の価値を自ら発信する、自分たちでつくるという発想が弱いと感じる場面も少なくありません。中には寺は黙っていても、「いつか誰かが理解してくれるもの」「信仰とは宣伝するものではない」といった考えから、発信すること自体に抵抗感を抱く方もいるように思います。
ところが、現代は大きく変わりました。人々の信仰心や宗教観は多様化し、寺院に足を運ぶ人の数も減少傾向にあります。檀家制度は崩れつつあり、先祖代々のお寺よりも自分が信頼できる住職や寺を選ぶ時代になりました。SNSや動画配信など、個人や企業が自由に情報発信できる環境が整っています。


このような時代において、寺院や住職が自らブランド価値をつくり、積極的に発信していくことは、選ばれ続けるお寺になるための条件となりつつあります。何もしなければ選ばれません。伝統を守るためにも、「伝える」「見せる」「知ってもらう」という努力が欠かせない時代になったのです。
「発信するものがない」は本当か?

よく耳にするのが「うちは特別なものがないから発信できない」「うちの寺には珍しい文化や行事がない」という声です。しかし、それは特別でなければ価値はないという誤解です。
その寺の歴史や本堂の建築様式や仏像の由来、年中行事の意味、お墓参りやお盆のしきたり、住職の日常や修行の姿、考えていること。これらすべてが、すでに発信すべき文化であり、地域の人々や現代の人にとっては知らない世界そのものです。
また、住職自身の趣味や特技、好きなものでも構いません。音楽、茶道、写真、バイク、掃除のこだわりでもいいのです。人は寺院そのものだけでなく、誰が語るのか、どんな人がそこにいるのかにも関心を寄せます。
ここで、天明寺の取り組み事例を紹介します。
流行よりも地元に根付いている文化に着目する

天明寺では毎年12月第2土曜日に白菜加持法要を行っています。これは護摩供と火渡りを中心とした法要で、仏教業界では決して珍しいものではありません。護摩を行う寺、火渡りを実施する寺は数多くありますし、特別な秘儀というわけでもありません。
しかし天明寺では、このよくある護摩法要を地域の人々が楽しみにする年末の大イベントへと育ててきました。当日は全国から参拝者が訪れ、参道は人の列で埋まります。白菜に祈りを込めて授与するというユニークな形式が、口コミやSNSで話題になりました。
さらに毎月6日、17日の早朝護摩法要は、YouTubeライブ配信で600人以上が同時視聴することもあります。寺に足を運べない方でも、画面越しに祈りと空気感を共有できるようになりました。
ここで強調したいのは、特別な秘儀を新しく作ったわけではないということです。むしろどこにでもある護摩法要に工夫、想い、今の時代の発信方法を掛け合わせたことで、価値が何倍にも広がったのです。
白菜加持法要はあくまで一例です。他にも、「本堂で毎日あげている朝のお勤め」「本堂や境内を掃除するとき」「仏具の音や香の立ちのぼる瞬間。
季節ごとに変わる境内の風景」「住職や寺族のささやかな習慣や心がけ」ーーこれらはすべて、外の人にとっては見たことのない世界であり、興味の対象となり得るものです。では、なぜ多くの寺院がそれに気づけないのか?
それは、発信するものなんてないという固定観念が、気づきの目を閉ざしてしまうからです。発信に必要なのは、特別なイベントや派手な演出ではありません。必要なのは、たったひとつ。価値は外から見たときに初めて生まれるという視点です。自分にとっての日常を意識的に見直すだけで、寺の中には驚くほど多くの物語、文化、学びが眠っています。
それに気づける人だけが、発信を通じて寺院の魅力を広げ、未来へつなげていくことができるのです。
必要なのは技術よりも先に心構え

情報発信において、一番最初に変えるべきものはスキルではなく心の姿勢です。
「やって意味があるのか?」ではなく伝わるまで続けてみる。できないではなくどうすればできる形に変えられるか。何もないではなく価値を見つけ、つくり出していく。そうした姿勢が整えば、スマートフォン1台からでも発信はできます。文章が苦手なら写真だけでも良いでしょう。動画が難しければ、短いひと言や教えを毎日届けるだけでも良いのです。
発信とは人とつながろうとする姿勢そのものであり、そこにこそ信頼と共感が宿ります。
伝統は守るものではなく、伝えることで守られるものです。寺院や僧侶の価値もまた、語られなければ伝わらず、存在していても知られなければ、ないのと同じになってしまう時代です。だからこそ今こそ、仏教界においても発信する勇気と挑戦が求められているのではないでしょうか。
天明寺《てんみょうじ》群馬県前橋市にある自然に囲まれたお寺です。 正式名称は「太子山 神通院 天明寺(たいしさん じんつういん てんみょうじ)」www.youtube.com
流行よりも「地元に根付いている文化」に着目する

寺院運営にも、時代とともに流行と呼ばれるものがあります。最近ではカラフルで個性的な御朱印や季節限定の風鈴守り、夜間ライトアップなど、参拝者の興味を引く工夫が各地で見られます。こうした取り組み自体は、若い世代との接点をつくる上で意味のあることですし、決して否定されるものではありません。
しかし私は、流行を追いかける前に、もっと足元を見つめることのほうが大切ではないかと感じています。なぜなら、流行は移ろいやすく、時には数年で忘れ去られてしまうこともあるからです。それに比べて、地域の暮らしや風土、文化の中で息づいてきたものは、長く人々の心に残り続けます。
たとえば天明寺がある群馬県では下仁田ねぎや国府にんじん、嬬恋キャベツなどの野菜が日常的に食卓に並びます。地元の人にとっては当たり前すぎて、特別視されることはないかもしれません。ところが、県外の方の目にはまったく違って映るのです。
訪れる人からは「本場の下仁田ねぎを一度食べてみたい!」「キャベツ畑の風景がこんなに美しいとは思わなかった」という声も多く、地元の人にとって普通の景色や食べ物が、外の人にとっては魅力に変わるということは多々あります。つまり、価値とは自分たちの視点ではなく、外からの視点で初めて見えることが多いのです。
白菜加持法要は「地元文化 × 信仰」から生まれた

先ほどご紹介した天明寺で行っている白菜加持法要も、その始まりは実にシンプルなものでした。きっかけはこの地域では白菜がよく採れるという、ごく当たり前の事実です。特別な企画や奇抜な演出から始まったわけではありません。
しかし、地元で育ち、食卓を支えてきた白菜に、祈り、感謝、加持といった仏教の精神を重ねたことで、白菜は単なる野菜ではなく、人々の暮らしと信仰を結ぶ象徴となりました。結果として、白菜加持法要は地域の人々だけでなく、遠方からも訪れる人が増えるほどの年末行事へと育っていったのです。
ここから言えることは明確です。流行を追うのではなく、すでに足元にある文化、農産物、人々の営みに仏教的な意味を与え直すことこそ、寺院にとって自然であり、持続可能な道であるということです。
継続できるものこそ、寺院が守るべき価値

寺院の役割は単に人を集めることではありません。つなぎ、受け継ぎ、伝えていくことです。この視点に立てば、「これは10年後、20年後も続けられるか?」「地域の暮らしや記憶、信仰とつながっているか?」「一時的な話題ではなく、文化として根づく可能性があるか?」という問いが非常に重要になります。
流行には確かに勢いがあります。しかし、寺院に必要なのは一瞬の注目ではなく、長く寄り添う力です。土地の風土、人々の営み、先人から受け継いだ祈り。そうしたものと結びついた取り組みこそが、寺院の存在意義と調和し、未来につながります。
寺院とは、その価値を見いだし、仏の教えとともに次の世代へ手渡す存在であるべきだと私は思います。だからこそ今こそ、流行の先ではなく、足元、地域の日常の中に光を当てることから始めてみてはいかがでしょうか。
ただ発信すればいいわけではない

これまで、寺院が発信をすることの大切さや考え方について述べてきました。しかし、ここでひとつ強調しておきたいことがあります。それは、発信は量よりも質。発信すること自体が目的になっては意味がないということです。
どれだけ頻繁に情報を出しても、内容が心に届かなければ、人の心は動きません。ただ義務感で投稿した文章や話には温度も感情もなく、すぐに忘れられてしまいます。
ずばり単刀直入に言います。内容がつまらなければ、その発信の価値は限りなく低くなるということです。これはSNSでも、法話でも、ホームページでも同じです。
よくお坊さんの話はつまらないと言われます。残念ながら、これは一部では事実です。法事や葬儀で、何年も、何十年も同じ話を繰り返しているお坊さんが一定数いるのです。


聞く人は「またこの話か」と思い、心が離れていく。話す側にとっても、新鮮さや熱がなくなり、惰性の法話になる。結果としてお寺や住職の話は退屈だというイメージだけが広がってしまうーーこれは発信でもまったく同じです。
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天明寺 公式ホームページ
前橋のお寺で永代供養| 宗教法人 真言宗 豊山派 太子山 天明寺群馬県前橋市にある天明寺(太子山 神通院 天明寺)の公式サイトです。不動明王をご本尊とし、亡き方の安らぎはもちろん、今 生tenmyoji.jp
小さな変化・気づきを加えるだけで、話は生きる

同じテーマでも、いま感じている気づき、最近経験したことなどを冒頭にひとこと添えるだけで、話は一気に人間味を帯びます。
たとえば、先日ある法話の冒頭で、法事へ向かう途中に縁石へ車を乗り上げてしまったという失敗談を話しました。すると、そんなことがあったのですね、住職でも失敗するんですねと会場全体が少し笑い、空気が柔らかくなりました。その後の話も、皆さんが真剣に耳を傾けてくださいました。
人は完璧な人よりも、不完全だけど誠実な人に心を開くものです。住職であっても、弱さや失敗を語って良い。むしろそれこそが、人の心に届く真実の発信だと私は思っています。
もしも法事の説話や挨拶が毎回同じ内容であるなら、それは発信においても危険信号です。しかし裏を返せば、変えられる、改善できるのであれば、それは大きなチャンスにもなるということです。
発信の質を高めるために、私が意識している5つの視点

伝えるのではなく、届く発信にするために、私は次の5つの視点を常に意識しています。
1.同じ話を繰り返さない
法話やSNS投稿、どんな発信でも前と同じ話にならないように意識しています。もちろん、仏教の本質は変わりません。しかし、角度を変える。たとえ話を変える。伝える相手を変えてみる。こうするだけで、同じ教えも新たな命を帯びます。いつも同じ話だと思われた瞬間、心の扉は閉じてしまいます。
2.最近の出来事、気づき、失敗談を冒頭に添える
人はリアルな生活感にこそ耳を傾けます。だから私は、法話でも動画でも、できるだけ冒頭に最近の出来事や失敗談を入れます。
今日は法事へ向かう途中、縁石に車を乗り上げてしまいました。昨日、檀家さんの一言で大切なことに気づきました。たったそれだけで、聞き手の表情や空気が変わり、話が生きたものになります。3.教えるのではなく、共に感じる、考える姿勢で語る
お寺や僧侶が陥りやすいのが「教えてやる」という上から目線です。しかし、今の時代に求められているのは先生ではなく、寄り添ってくれる人です。こうした姿勢こそが共感や信頼を生み、話の内容以上に人の心に残ります。
4.完璧を装わず、人間らしさ、生の感情を見せる
僧侶であっても人間です。迷いも失敗もあります。それを隠すよりも、素直に表現したほうが、むしろ相手の心に響きます。実は迷いながら話しています。不安になることだってあります。仏の道を語る人ではなく、仏の道を共に歩んでいる人として語ること。そこに本当の信頼が生まれます。
5.これを伝えたら誰かの役に立つか?を基準にする
発信の目的は言いたいことを言うことではありません。誰かの役に立つか、誰かの心が軽くなるか。それが判断基準です。この話は、疲れている人の励みになるだろうか?悩んでいる人が、救われる言葉になるだろうか?そう問い続けることで、発信の軸がぶれなくなります。
発信とは単なる情報の共有ではありません。心と心の交流です。だからこそ、伝え方以上に大切なのは、どんな思いで伝えるのか、どれだけ自分の言葉で語れているかです。
形式でも、完璧な言葉でもなく、温度のある言葉を届けること。それこそが人の心を動かし、信頼を生み、お寺や住職の価値を自然と高めていく道だと私は思います。
ブランド価値が高まれば、お寺は聖地になれる

これまで、寺院や住職自身が発信を通じてブランド価値を高めることの重要性についてお話ししてきました。では、ブランド価値がしっかりと育つと、最終的に何が起こるのでしょうか。結論から言えば、寺院が聖地化していくということです。
例えば、普段は遠方に住んでいるけれど、旅行や出張の際にせっかくだから寄ってみようと思える寺。YouTubeやSNSを通して寺の雰囲気や住職の言葉に触れ、いつか必ず行ってみたいと感じる寺。毎年の恒例行事に参加するため、予定を調整してでも足を運びたくなる寺ーーこのように、寺院に特別な価値や意味を感じる人が増えれば増えるほど、その寺は聖地へと近づいていきます。

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ちなみに、天明寺の白菜加持法要には、YouTubeを通じて法要や護摩祈祷を見た方々が翌年以降実際に来てみましたと足を運んでくださるケースが少なくありません。
もし発信していなければ、天明寺の存在を知ることすらなかった方々が、わざわざ時間とお金を使って訪れてくださる。これはまさに聖地化の第一歩です。
変化を恐れず、一歩を踏み出す勇気を

寺院は過去を守る場所であると同時に、未来へ祈りをつなぐ場所でもあります。時代が変わり、人の生き方が変わっていく今こそ、守るべきものと変えていくべきものを見つめ直す必要があります。
大切なのは完璧に始めることではなく、今ある場所から一歩踏み出すこと。たとえ発信が不慣れでも、拙くてもかまいません。想いがこもっていれば、人の心は必ず動きます。
始めるのに遅すぎるということはありません。むしろ今始めた人だけが、未来の寺院をつくるのだと私は思います。